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第47回コラム
「地震と情報リテラシー」

情報アーキテクチャ専攻 准教授 中鉢欣秀

地震と情報リテラシー

 去る2011年3月11日に発生した大震災と大津波に遭われた方、亡くなられた方、行方不明になられた方には謹んでお見舞い申し上げます。

 かくいう私自身、仙台に住む両親が地震に見舞われた。幸い、実家は家具が散乱した程度で済み、現時点でガスを除くライフラインも復旧して元気に生活していると聞いている。しかしながら、東北地方全体として見ると今回の災害からの復興は長期戦になるであろう。気力・体力が問われることになるが、東北の人間の粘り強さ、根気で見事に復活できるものと信じている。

 さて、今回の自然災害を機に、情報技術の専門家としていくつか興味深い事例があった。本稿では(未整理で恐縮ではあるが)それらの事項に関してコメントをしたい。

 まず、地震発生直後からコミュニケーションの手段としてのTwitterが大いに注目を浴びた。携帯電話がつながりにくい状況の中、Twitterが唯一の情報源となった人も多く、このツールの有用性を改めて感じた人もいることだろう。ただ、問題はそこを流れてくる情報の質である。地震の直後、例えば「○○村の避難所にいる者です。物資が底をつき、餓死者がでています。」というようなツイートが頻繁に見られた。

 これは見る人が見れば明らかにデマだとわかる。3月30日付け産経新聞の記事"流言不安が人を駆り立てる"ではこのツイートにある○○村が合併により既に存在しないことを根拠に、デマだと断じている。ただ、それとは別に、そもそも被災地は停電している上に携帯も繋がりにくく、Twitterどころの騒ぎではなかったのが事実だ。残念ながら、少なくとも私がタイムラインを眺めていた限りにおいては、本当に被災者からの生の声が流れていたようには思えない。善意か悪意かはおいておくとして、周辺から憶測を含む様々な根拠不明の情報が発生してTwitter上にリツイートとして蔓延した。

 次に、情報の価値の見極めにはある一定レベル以上の常識が必要であると改めて痛感した。例えば、地震により福島の原発が停止したとの情報から、東京で大規模停電の可能性があると瞬時に判断できるのは、福島の原発が東京電力のもので首都圏に送電している事実を知っていればである。加えて、新潟の柏崎狩場原発が新潟県中越沖地震により停止して完全には復旧していないということも知識として持っていれば、「福島原発停止=首都圏での電力不足」ということに容易に気づくだろう。また、輪番停電(計画停電)というものも、唐突なようではあるが実は日本で過去実施された例があり、加えて、夏場の電力需要が増大する頃に毎年のように議論されてきたことなのだ(もっとも、今回の東電の対応を見ると、具体化・詳細化の段階には至っていなかったようではある)。

 また、放射線と放射性物質、放射能との違いについての知識があったかどうか、ミリシーベルトとマイクロシーベルトの大きさの差を理解できるか、といったことも情報を判断するための大きな要素だ。原子力は正常に停止したが、これが再び臨界を迎えるかどうかが不安なら、臨界とはどのような科学現象で、どうすると起こるのかについて調べてみるのがよい。「可能性はあるが非常に低い」とは具体的にはどういうことを示すのか、きちんと理解するよい機会である。その上で、技術者が発するデータをどう解釈するかが、メディアの役割なのだと思うのだが。

 以上は、主として情報リテラシーに関連する話題であった。もう一つ、情報システムの話題として漠然と感じているのは、今後、いわゆるクラウド化が本格的に加速しそうだということだ。阪神淡路大震災の後、神戸港がダウンしている間に、釜山港に貨物の取り扱いがシフトした。それと同様、国内に物理的なサーバを備える多くのシステムを海外のクラウドに疎開させる動きが始まりそうである。国内でサーバやネットワークを管理することを生業としてきた情報産業が今後どうなるか、気になるところである。

 最初にお断りしたとおり、あまり上手くはまとめることはできなかったが、私が今回の地震を受けて感じたことを綴ってみた。この記事ではTwitterにおけるデマのことを書いた。しかしながら、そのような一面はあっても、Twitterから流れてくる、暖かみのある情報、ふと笑ってしまう情報、感動的な情報などを受け取ることで、実家が被害に遭った人間としては大いに心が癒された。ここでは私のところにそれらの情報を届けてくれた皆様に感謝の気持ちを述べさせて頂き、ひとまず筆を置くことにする。

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